声が衰えても、ずっと、歌い続けた純じぃへ。

先日、純じぃに預けていたキューバのボンゴが出てきたと、弟のデイブちゃんから連絡があった。

デイブちゃんはピアノ弾きで、私が23歳くらいの時(30年前)に働いていた店のピアニストで、多分北九州では私の歌伴を嫌がらずに、他のミュージシャンの顔色も気にせずやってくれる唯一のピアニスト。

だけど、私はめったに歌わない。北九州では嫌な事がいっぱいあったから。

久々に会ったデイブちゃんは「あんた、生意気やったけね」と、笑った。

「え?何が生意気なの?意味わかんない」

「思ったこと言うやろ。ため口やったし」

「なんでそれが生意気なん?無邪気なんだと思うよ。」

「それがここじゃ、ダメなんよ。」と笑った。

私は、北九州のジャズミュージシャンに、結構嫌われてた。だから、世界に逃げていく。逃げていくことで世界が広がり、出会いが広がり、いろんな経験が出来た。結果としては、それでよかった。

私が逃亡先のキューバやニューヨークから帰ってくると、純じぃに会いに行った。純じぃはとても嬉しそうだった。

「お前さん見とったら、腹が立つんよ。行きたいとこ、やりたい事、すごいミュージシャンにも、臆せず飛び込む。あんたの度胸はすごい。俺には出来ん。やけ、見とったら、腹が立つんよ。やけ、嫉妬するんよ。でも、俺は、お前さんが好きやけの」と笑った。

 

なんで、今更、こんな事を書いてるかって・・・。

「福田純太郎」って検索しても、おい街の高野さんの記事と、西日本新聞の記事と、N9S MUSIC PROJECTと非公開になっていた私のサイト(めんたいロック)くらいしか出てこなかったんだ。

で、なんで、純じぃの事を検索してみたかって、N9S MUSIC PROJECTが今度出版する、「北九州音楽(ロック)全史」の最初のインタビューを純じぃから始めるっていう投稿を見たんだ。

 

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この前、2023年1月29日に鮎川さんが亡くなったでしょ。その時に、純じぃの写真をアップして、鮎川さんと純じぃの追悼投稿をしたのね。そしたら数人の人に「純太郎さん、亡くなったん?」と聞かれたの。

ボンゴを受け取る時、デイブちゃんに会ったから「純じぃの追悼ライブやろうよ。私、歌うからさ」って言ったの。

デイブちゃんに、純じぃのレパートリーとかを聞いてみると、どうも、ベトナム戦争時代の頃のR&Bとか、ロックとかがベースにあるって気づいたんだ。今更「気づく」ってことは、今まで知らなかったんだよね。私は1940年代のアメリカ音楽で、60~70年代初期はあまり知らないから、気にかけてなかったんだね。純じぃも晩年はジャズのスタンダードナンバーやポップスを歌ったりしてたからね。

「純じぃ」というフィルターをかけて、ベトナム戦争時代の頃のR&Bとか、ロックとかを聞いてみると、今まで見えなかった純じぃの事にいろいろ気付き始めたんだ。

もしも、「北九州のロックの起源は純太郎さんやろ」っていうのなら、純太郎さんがどんな人だったのか残しておきたいと思った。「わたしのフィルター」を通して感じたり、見たり、接した純じぃの事を書こうって。

音楽って、テクニックだけじゃなくて、その人の生き方や人となり、言葉では表現できないから、音楽を使って伝えたり。不器用な人ほど、生きる為、表現するため、伝える為に音楽が必要なんだとも思う。それは人によっては絵だったり、踊りだったり・・・。

晩年の純じぃは声も出ないし、音も外れてた。体が痛いと言って、時々店を休んでた。

それでも歌い続けてた。

私があっちこっちで嫌われてても、純じぃは私が好きだった。

それが「福田純太郎」なのかもと、今は思う。


追悼ライブ、出来るかな。今色々試行錯誤してる。多分、準備中。きっとやれるよ。ね。