北九州ロック村の住人に救われた中学生(わたし)

私は子供(中学)の頃、北九州のロック村の住人に救われた一人だと思います。

私は北九州市門司区から山口県下関市の私立の中学に通っていました。なんでわざわざ下関の中学に行っていたかというと、小学校ですごい苛めに遭って、体がアザだらけとかになっていたから逃げていきました。

中学一年生からタウン誌の「おいらの街」を読んでいた私は、小倉の情報はそこから得ていました。私は映画とか時々行っていたのですが「おいらの街」を読んでいると、ライブハウスの事とか、「めんたいロック」という言葉が出てきて、なんだか、小倉は盛り上がっているようでした。

その頃は「BOX」とかいうライブハウスだったような記憶が・・・。

中学2年生の時、なるみちゃんという仲良しの友達が出来ました。なんで仲良しになったかと思いだすと、「ロック」だったと思います。

RCサクセションがきっかけだったと思います。

仲良くなるにつれ、私たちはレコードを貸し合ったり。当時レンタルレコード店というのがありました。門司駅の近くの商店街にレンタルレコード店があり、そこの棚に「ルースターズ」や「ロッカーズ」がありました。そこで「サンハウス」にも出会います。

私たちは、カセットテープに録音して、ウォークマンで聴きまくりました。

私は、学校が嫌いでした。

勉強する意味も、学校に行く意味も解っていませんでした。どうして学校に行っていたかというと、父親が怖かったからです。学校に行く理由と楽しみは、なるみちゃんに会って、ロックの話をすることくらいでした。

門司駅前に「ミスタードーナッツ」があり、私は学校に行く前によくそこで過ごしていました。10時ごろの電車で学校に向かう事もよくありました。

ミスタードーナッツで働いていたおねえさんがいました。

私が学校に行きたがらないので、時々袋にドーナッツを詰めて「しょうこちゃん、学校に行って友達と食べなさいね」と、手渡してくれました。

わたしには、なるみちゃんくらいしか友達が居ないので、なるみちゃんと食べていました。

そんな日々の中、ある日、おいらの街でルースターズのライブが小倉であると知りました。

なるみちゃんと、「どうしても行きたいねー!」となりました。

まずは、怖い父親に行ってもいいか、ききました。父はとても厳しくて怖いですが、もともとピアノ先生だった人で、音楽の事になるととてもとても寛大なんです。

ミスタードーナッツのおねえさんに、ルースターズに行きたいんだ、と相談すると、中学生二人が夜のライブに行くのは心配だからと、おねえさんのお友達に「一緒に行ってもらえないか」聞いてみると言いました。その友達というのはルースターズのベースの井上さんの妹さんでした。熊谷真美似の可愛い人でした。

ライブの当日、またしても、「学校に行きたくない」発作が出てしまい、学校に行きませんでした。でも、ライブに行きたい・・・。厳しい父は学校に行かなかったらライブに行かせてくれないと思い、7時間目の授業に間に合うように学校に行きました。

その夜。はじめてのロックのライブ。その時のルースターズはROOSTERZになっていて、池端さんの抜けた後でした。

ミスタードーナッツのおねえさんは鮎川さんとシーナさんの子供のベビーシッターに行くと時々言っていました。

その頃の小倉のライブハウスは「In and Out」(インドって言っていました)。なるみちゃんと私はインドに通いました。

UP BEATのドラムの島田さんという人がミスタードーナッツによくいました。おねえさんのお友達でした。私たちはUP BEATのライブに行くようになりました。UP BEATのライブで高校生の友達が出来ました。その頃はまだライブハウスに来る中学生はほとんどいなかったので、みんなが珍しがって可愛がってくれました。

相変わらず、学校に行く意味が解らず、高校にも行かなくていい、行きたくない、と思っていました。

ある日、ミスタードーナッツのおねえさんが、真剣な目で私に言いました。おねえさんは松崎さとこさんといいました。

「しょうこちゃん、私の為だと思ってもいい。高校に行って。3年間我慢したら、人生が違うから。全く違うから」と、おねえさんは私に、お願いしました。

あまりに真剣な「お願い」だったので、

「わかった。松崎さんがそこまで言うなら・・・3年我慢する。」

「しょうこちゃん、受験の日、必ずお店に寄って。御守り渡すから。」

真剣におねえさんが言うので、受験の日の朝、ミスタードーナッツに行きました。

おねえさんは折りたたんだ紙を渡してくれました。

「試験が終わるまで絶対に見ちゃだめよ」

試験が終わってその紙をひらくと、お世辞にもうまいとは言えない字で「絶対合格する」だったかな、何度も何度も紙いっぱいに書いてありました。

上手い字じゃないから、なお更、おねえさんの真剣な気持ちが解りました。

私は無事高校に進学しました。

その後、ハードロックやヘビメタ系の高校生たちと仲よくなりました。友達が出来たことはとても楽しかったのですが、その後ジャズというか、1940-1950年代のアメリカの音楽を聴くようになりました。高校3年生の頃にはジャズボーカルやスイングジャズを聴くようになっていました。そうして、ロックやIn and Outから離れていきました。

20歳で渡米。ひょんなきっかけで歌を習う事になりました。1940年代のアメリカの流行歌を歌い始めました。

ニューヨークでは高齢なジャズミュージシャンにも可愛がってもらいました。私は1940年代のジャズが専門だったので、その時代を生きたミュージシャンたちはもうおじいちゃんたちばかり。著名なジャズミュージシャンにも可愛がってもらいました。

45歳くらいからは、キューバに行きました。キューバのミュージシャンたちはとても、とても、楽しかった。音楽がこれほど楽しいものだと、彼らは教えてくれました。

私が子供の頃、この街には、自然にロックがありました。

おいらの街を読んで、めんたいロックを棚に飾っているレンタルレコード屋があり、松崎さんがミスタードーナッツ居て、自然にロックに入っていき、ロックを通過していきました。

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写真は2023年にミスタードーナッツ門司駅前店に行った時の写真です。