純じぃに預けていたボンゴが戻って来てから、弟のデイブちゃんによく会って話すようになった。
今まで、当たり前に、生きているだろう、と思っていたからか、訊きもしなかったような事を、デイブちゃんに訊く。デイブちゃんは嬉しそうに「兄貴」の話をする。
訊いてみると、北九州の音楽の近代史みたいなのが見えてくる。時代も、人も、価値観も、違う。
その日はデイブちゃんに会った後に、おい街の高野さんに会いに行った。
純太郎さんの話や、当時の小倉の音楽の事を話してくれた。
今度発売される北九州音楽全史に何が書いているのか私は知らない。ネタがかぶってしまったら申し訳ないから、今は何も書かないよ。
個人的に印象的だったのは「純太郎さんは人の意見に流されない」と高野さんがいっていた。
だから、純じぃは私がほかの人たちに嫌悪されていいても私を好きでいてくれたのかもしれない。
その晩は、なぜか。突然、「なしかde saion」という、純太郎さんが晩年歌っていたお店をやっていたママから電話で呼び出された。私はその店に時々お手伝いに行っていて、そこで純太郎さんと親しくなったの。
遅い時間だったけど、どうしてもママに会っておきたかったから会いに行った。
「純太郎さんが亡くなったの…封印しとったんよ。なんか受け入れたくなくてね。コロナで会う事も出来んかったし」
ママも純じぃの事をいろいろ話してくれた。ママが17歳のころからの付き合いだと言っていた。
その後、ママの娘さんの働いているお店に行った。
みんな、会えないうちに、亡くなって、本当に会えなくなった純じぃの死をうまく受け入れられてないかも・・・。
私もそうかもしれない。
だから、一生懸命、トリビュートライブをしようって、走ってるんだと思う。
会いに行けなくて、連絡もしてなくて、ごめん、って。
この日は純太郎さんと親しかった人たちに会えていっぱいお話を聞けた日でした。